穂積君が水の神として祀り始めた社、祭神は高龗神
当社の創建については、社記に次のように語られている。
昔、櫛玉速日尊の御子、可美真智の子孫である穂積丞稲負君は、知知夫国造と同じく当国へ来て勧業殖民に務めた。天照大神と熊野大神を奉斎し、神の心に叶い、順調であった穂積君の開墾事業ではあったが、ついにその危機が訪れた。時に弘仁九年、大干ばつが起こり、水は涸れ、地は乾き、稲はことごとく萎えてしまった。これを見た穂積君は深く憂い、斎戒沐浴の後、二人の子どもとともに熊野大神の社に請い、高龗神を勧請して、号泣して降雨を祈り、村民もこれに従って神の助けを請うた。その祈りが神に通じ、慈雨大いに降り、水陸共に元に復した。更に、雨が止んだかと思うと、数か所から清泉が噴出し、田に水を満たしたので、その年の秋には豊かな収穫があった。歓喜した人々は、この泉を神井と称え、これにちなんで村の名も井上と改めたのであった。その後、この近辺の諸村を総称して宜田郷と呼んだ。今の「吉田」という呼称はここから起こったものと言われている。
その後も当社は度々神威を顕し、水の神として篤く信仰されるに至った。殊に正暦二年の大干ばつを救った時は、遠近の諸人が競って財貨を寄進したと伝え、この時京都の貴布禰大神を分祀して以来、貴布禰大明神(貴船大明神とも記す)と称した。下って、明治六年には下吉田村の村社となった。