文明八年(1476)の創立と伝え、永正二年(1505)に鎌倉光明寺の学頭(がくとう)昌誉順道上人(享禄二年=1529年没)を迎えて開基としました。京都知恩院の末で本尊は阿弥陀三尊。館山城主里見義康のおじにあたる四世豪誉上人のとき、義康から寺領六十石とともに、仏餉米(ぶっしょうまい)(仏に供える米飯)五十俵が毎年与えられたそうです。徳川将軍家からも六十石の朱印地を与えられ、門前の南町一帯は金台寺の所領でした。また六世檀誉上人の姉は徳川家康の内室であったことから特別の保護を受けたとされています。この当時の境内は二町四方で、堂宇の建坪は190余坪。七世正誉上人のときには浄土宗の房州一国の触頭(ふれがしら)として、安房国内の浄土宗寺院の行政的な管理をおこなうほどに隆盛し、塔頭(たっちゅう)二宇(専明院・要修院)、末寺七ヶ寺のほか配下に五ヶ寺を擁しました。触頭の地位は宝永年間に大網の大巌院に替わり、それからまもなく二宇の塔頭は廃されました。