みょうけんじんじゃ
徳島県鳴門市撫養町林崎字北殿長147
旧神饌幣帛料供進神社 当社の御祭神天御中主神は、平安時代末期に大陸から伝わった北辰(北極星)信仰と結びつき妙見社として祀られるようになった。 室町幕府第10代将軍足利義植は、京都を退いて淡路を経..
旧神饌幣帛料供進神社 当社の御祭神天御中主神は、平安時代末期に大陸から伝わった北辰(北極星)信仰と結びつき妙見社として祀られるようになった。 室町幕府第10代将軍足利義植は、京都を退いて淡路を経て撫養に移り、大永3年(1523)この地に没した。その義稙がさきに周防の大内家に身を寄せていたときに受けた妙見尊星をこの山に勧請して社殿を造営したのが当社の起源とされている。 その後、四宮加賀守がここに居城を構えていたが、天正10年(1582)長曾我部元親に攻められて落城し、社殿も兵火にかかった。天正13年蜂須賀家政が阿波に入国してから、阿波東北の抑えとしてここに岡崎城(阿波九城の一つ)を築き益田内膳に守らせたが、寛永15年(1638)に一国一城の制がしかれてこの城も廃城となった。 天保元年(1830)春、旧城主四宮加賀守の子孫四宮三郎左衛門と林崎村の豪商近藤利兵衛らがその城跡に妙見神社を再建した。これにより、それまで古城山といわれていたのが、この社にちなみ「妙見山」と呼ばれるようになった。
天御中主神(あめのみなかぬし) 事代主神(ことしろぬし)
旧村社
室町時代
10月18日(10月体育の日)
有り。(妙見山公園)