あかまるあさいじんじゃ
富山県高岡市福岡町赤丸5324
赤丸浅井神社の創建は不詳ですが孝霊天皇の御代(紀元前290年~紀元前215年)に八河江比賣神の分霊が勧請されたのが始まりとされます(文武天皇の第2皇子石川朝臣広成によって創建したとも)。 養老元年..
赤丸浅井神社の創建は不詳ですが孝霊天皇の御代(紀元前290年~紀元前215年)に八河江比賣神の分霊が勧請されたのが始まりとされます(文武天皇の第2皇子石川朝臣広成によって創建したとも)。 養老元年(717)、行基菩薩(奈良時代の高僧)が別当寺院として毘沙門天を本尊(浅井神社から見ると本地仏)とする川人山鞍馬寺を開き、最盛期には48坊を擁する大寺として大きな影響力がありました。 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳で式内社として記載される浅井神社の論社で(近隣にある石堤にも浅井神社を号する神社が鎮座しています)越中34座、砺波郡7座の1座とされています。境内の前は加賀国府と伏木の越中国府とを結ぶ古代の官道が通り、江戸時代の宿場町にあたる「川人(川合)駅」が設置され、当社はその鎮守社として庇護され五位庄五十三ヶ村の惣社の格式を得たと思われます。その為、江戸時代前期まで「川人明神」の別称があり神官(明治以前は社僧)は代々川人家が世襲して祭祀を司っています。 南北朝時代に宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が赤丸城に入ると浅井神社を崇敬し境内に末社7社を勧請、別当寺院である川人山鞍馬寺は五位庄から各戸玄米一升づつを取り纏め親王に献上していたそうです。古くから神仏習合し別当寺院として川人山鞍馬寺西宝院が担ってい「川人権現」や「三社権現」などと称していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後い吹き荒れた廃仏毀釈運動によって廃されています。 その際、古文書は焼かれ、本地仏は破却、境内に建立していた石仏も首が切られたそうで、祭神として新たに高皇産霊神(天地開闢時に高天原に降臨した神)が祀られ郷社に列しています。
浅井神社は養老年間の創建とされ、延喜式内社に名を連ねるといわれている。 近隣の高岡市石堤にある浅井神社とともに、延喜式神名帳の越中国礪波郡「浅井神社」に比定される神社であり、どちらを式内社とするかは論争がある。
八河江比賣神 高皇産靈神
式内社 旧郷社
浅井神社の杉並木