俣野五郎景久と観音堂
治承四年八月二十三日(1180)伊豆に配流中の源頼朝が平家政権打倒のため石橋山に挙兵すると平家側の総大将として是を襲ったのは藤沢の大庭景親であったが、弟俣野五郎景久は家臣長尾兄弟 (上杉謙信の祖) と源氏の先陣佐奈田与一を打ち取り、頼朝軍は敗走辛じて房総に逃れた。
頼朝が源氏家累代の家臣、千葉一族の協力を得て勢力を恢復し十月鎌倉に入府すると大庭景親を片瀬川畔で斬首し、五郎景久を遠く京都に敗走させて石橋山の報復を遂げた。
寿永二年五月、俣野景久は平家盛軍の将とし、頼朝の従弟木曽義仲の軍と加賀の篠原で対戦したが、平家の配色濃厚で、武将の間から、いっそ源氏に鞍替えしてはとの話が出ると景久は強く反対し 「武士としていさぎよく討死」 の覚悟を示し、守護仏の観音像を家臣に托して母の待つ故郷、相模国俣野に送って自らは壮烈な最期をとげた。
いま篠原には景久の戦友で共に討死した斎藤実盛の墓はあるが、景久等の墓はない。
推うに実盛はまだ三歳だった義仲が殺されるのを救うけた生命の大恩人であるが、是に反した景久は徹底した反源氏の将なるが故に、その墓の建立が憚られたものに違いない。
景久に由緒のある観音堂は、慈、鎌倉海道西の道に接してはいるが、治承の昔からこの地に建立されてたか定かではない。
大正地区歴史散歩の会より引用。