蔵波城は、東南西の3面が険しく西側が東京湾に面した山稜に築かれていたが、今は海側は埋め立てられ、山稜も宅地造成のため取り除かれてしまい平坦地になっている。市原市椎津にある椎津城の出城の1つで、久保田城と同様、椎津城の背後固めとして、武田信政(真里谷信政)が天文年間(1538年~1551年)に築城したと考えられる。また、蔵波城は、里見義堯が築城し近藤大膳綱利に守らせたが、北条氏により落城し、綱利は討死したとの言い伝えもある。縄張りの前面には密蔵院があって、荒野の面影をわずかに残している。寺の前面には蔵波川が流れて海に注ぎ、水堀となって城の正面となしていることは久保田城と同様である。海岸に沿って南西約5.5キロメートルのところに小櫃川が流れ、里見氏に対する防衛としての要害をなしている。