弁才天は元来インドにおいて川を神格化したもので、日本でも竹生島など水に関係する地によく祭られています。狛弁才天社は、室町時代初め頃に上狛から椿井にかけて広がっていた興福寺領狛野荘の利水や水害に関連して創建されたものといわれています。
15世紀中頃から後半には興福寺大乗院や一乗院から門跡が参詣し、拝殿造営のための奉加帳が興福寺内で回覧されている記録が確認されています。
狛弁才天社は狛氏の守護神であるとされ、狛山城守秀はその当時狛野荘の荘官(下司)を勤めていたことから、互いの密接なつながりが伺えます。その後16世紀後半頃に大規模な再興がなされたと考えられ、天正六年(1578年)に木造弁才坐像及びその眷属である十五童子像が南都寺院の宿院仏師・源三郎らによって製作され、天正八年には拝殿が再建されています。こうした一連の事業は西福寺に肖像画を残す狛左馬進秀綱が中心で実施したと考えられています。なお現在の本殿や拝殿は近世後期に再建されたもので、隣接する玉台寺は弁才天社の宮寺として建立されたものと考えられています。