ならじんじゃ
埼玉県熊谷市中奈良1969
社伝によると当社は、下野国の国造の任を終えた奈良別命が、武蔵野の尾花の原(当地)を開いて美田となし、奈良郷の基を築いたことから、命が亡くなると郷民がその徳を偲んで建立し、祀ったものであるといい、また..
社伝によると当社は、下野国の国造の任を終えた奈良別命が、武蔵野の尾花の原(当地)を開いて美田となし、奈良郷の基を築いたことから、命が亡くなると郷民がその徳を偲んで建立し、祀ったものであるといい、また、当社東北一キロメートル所にある横塚山と呼ばれる前方後円墳は、奈良別命の墓所であるという伝承がある。ちなみに、奈良別命については『国造本紀』に、仁徳天皇の御世、崇神天皇の第一皇子豊城入彦命四世孫に当たる奈良別命が初めて下野国の国造に任命されたことが記されている。 『文徳実録』の嘉祥三年(八五〇)五月十九日条によると、当社は先の慶雲二年(七〇五)、陸奥国の蝦夷反乱に際し神威を発揮したことにより、式内社に列したとある。これは、武蔵国が東海道所属となる宝亀二年(七七一)以前は東山道所属であったため、兵士の集結所が北武蔵に設けられていたこととかかわりがあると思われる。また、古代、東北地方の支配拠点として築かれた多賀城(宮城県多賀城)の城跡出土木簡には、当地を含む幡羅郡一帯から兵糧と思われる米が搬入された記録があることも参考になろう。 古代、当社を奉斎した氏族については、恐らく、当地一帯を支配した奈良氏であると考えられ、『成田氏系図』によると、同氏は近隣の成田・別府・玉井氏などと並ぶ関東の名族の一つであった。(本務社:上之村神社 大雷神社HPより)
奈良四村の惣鎮守なり、本地彌陀・薬師・観音を安ず、古は修験圓蔵坊が持なりしが、成田氏下野國烏山に移る時、圓蔵坊も随て移り、古記録も彼地へ携去し故、當時の傳詳ならず、今は長慶寺の持となる、社内に奈良神社を合せ祀る、奈良神社は神名帳當郡四...
奈良別命
延喜式内社
1月1日 元旦祭 2月3日 節分祭 4月15日 春祭 7月15日 八坂祭 10月15日 秋季大祭 11月下旬 大麻頒布始祭 12月22日 冬至祭・星祭 12月31日 古札焼納祭・大祓・除夜祭