当社の創建について、『明細帳』は不詳としているが、その創建には「大尽」と呼ばれ、かっては名主を務めていた関根家がかかわっていたと思われる。
同家は、『風土記稿』にも「旧家者十郎」と記されており、、その先祖は鎌倉幕府の御家人で、数代後の民部小輔重隆は古河公方足利政氏にに仕え、政氏が永正九年(1519)に子の高基との争いに敗れて各地を転々とした後、同十五年(1581)に久喜館で隠棲の身となった際、重隆もこの地に土着したと伝える。この間、永正十三年(15169から足掛け三年余りを政氏らは岩槻の上杉朝良の元で過ごしているため、重隆がこの地で帰農するに当って主君に縁の深い岩槻城の鎮守である久伊豆神社を勧請したものと思われる。
「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より