れんちょうじ
奈良県奈良市油阪町426
当山は、もと三論宗に属し、東大寺別当勤操(空海の南都の師)が千ケ寺建立の際の一寺と思われ、喜見城院と言った。開創年代は不明であるが、奈良朝末期、恐らく750年に近い年代の頃と考えられる。 日蓮聖..
当山は、もと三論宗に属し、東大寺別当勤操(空海の南都の師)が千ケ寺建立の際の一寺と思われ、喜見城院と言った。開創年代は不明であるが、奈良朝末期、恐らく750年に近い年代の頃と考えられる。 日蓮聖人は寛元4年(1246)から宝治元年(1247)にかけて南都六宗研鑽のため、奈良にご遊学あそばされた。まず元輿寺に入って倶舎宗を、次いで東大寺で華厳宗、興福寺で法相宗、法隆寺で三論宗、唐招提寺・西大寺で律宗を研究され、さらに薬師寺の経蔵に入って一切経を閲読された。この間、喜見城院を拠点とされ、一番長く滞在されたと伝えられている。 応仁2年(1468)、時の住持即俊が、宗祖の霊夢を見て日蓮宗に改宗、寺号を喜見院と改め、京都大本山本国寺第11世大聖院日尭を開山に迎え、自らは第2世に就いた。翌文明元年、本堂・番神堂を建築して寺観を一新、教勢また大いに振ったが、後年(元亀・天正の頃)火災に遭い、堂字悉く焼失して廃虚となった。 江戸期に入り寛永の頃、京都本国寺執事の喜見院日便来たって復興に挺身、篤信の浄信院日英尼ら多数宗徒の外護協力を得て、承応2年(1653)、本堂・庫裡・山門等を再建、寺域を整備して復興を果たし、寺号も日蓮聖人ご出家の時の御名「蓮長」を冠して光映山蓮長寺と改め、大本山本国寺末頭となり、今日の基礎を成し遂げた。 吉川英治著の小説『宮本武蔵』にも登場する当山は、宗祖南都ご遊学ご寄錫の霊跡として、日蓮宗宗門史跡に指定されている。~HPより抜粋~
光映山
日蓮宗
近鉄奈良駅 徒歩5分 JR奈良駅 徒歩10分
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