置塩城は、嘉吉の乱(1441年)後に赤松宗家を再興した赤松政則が、播磨守護就任にあわせ、文明元年(1469年)に築城したと伝わる。
以後、義村、晴政、義祐、則房5代にわたる後期赤松氏の本城となった。
天正8年(1580年)、播磨を平定した羽柴秀吉は、翌9年、播磨国内の置塩城他の破却を命じた。同13年、則房が阿波へ移封されるまでの間に置塩城は廃城となったと考えられる。
城跡の遺構は、標高370メートルの城山山頂部に位置する1郭(伝本丸)とその西の尾根上に配置される2から4郭の主郭曲輪群(伝二の丸・三の丸)からなり、東西約600メートル、南北約400メートルにわたって広がる播磨最大の山城である。
平成13年から17年に行われた発掘調査では、主郭から礎石建物や庭園、築地土塁を持つ格式の高い屋敷跡が確認された。伝本丸からは、基礎を塼瓦で区画した天守に似た櫓状の建物も発見された。(姫路市HP)