はんがんづか
埼玉県東松山市岩殿1169-2
判官塚は比企判官能員の追福のため築きしものと云い伝う。その由来は詳ならずと新編武蔵風土記稿に誌るされている。比企判官能員は鎌倉時代源頼朝の御家人で、比企入間高麗三郡の守護職にて、母・比企禅尼は頼朝の..
判官塚は比企判官能員の追福のため築きしものと云い伝う。その由来は詳ならずと新編武蔵風土記稿に誌るされている。比企判官能員は鎌倉時代源頼朝の御家人で、比企入間高麗三郡の守護職にて、母・比企禅尼は頼朝の乳母、娘・若狭局は二代将軍頼家の夫人であるので、北条時政と並ぶ鎌倉幕府の有力者であった。頼朝の死後、建仁3年9月2日(1203)、時政の謀略により鎌倉の時政邸内で暗殺された。後、建保6年(1218)頃岩殿山に居た能員の孫員茂は、観音堂の東南の地・南新井に塚を築き、能員の菩提を弔ったと云う。何時の時代か比企大神として祭り崇め、参拝するようになり、今日に至ったもの。このたび大東文化大学キャンパス開発造成工事に伴ない構内となるため、氏子一同相計り現在地に遷し祭る。