さんとくいん
宮崎県えびの市栗下909
三徳院は加久藤栗下にある天台宗延暦寺の末寺で、盲僧寺です。 この三徳院が世に知られるようになったのは2世・明久(菊一・真盛)の頃からで、彼は、飯野城主島津義弘にたびたび召され、祈祷や占いを命ぜられま..
三徳院は加久藤栗下にある天台宗延暦寺の末寺で、盲僧寺です。 この三徳院が世に知られるようになったのは2世・明久(菊一・真盛)の頃からで、彼は、飯野城主島津義弘にたびたび召され、祈祷や占いを命ぜられました。 特に、1567年、菱刈合戦の勝敗を占い、的中させ合戦は大勝利に終わりました。 また、1572年木崎原合戦の時、敵、伊東方に密偵として潜入し、敵方の情報をもたらし勝利に大いに貢献しました。 島津義弘公は、明久のそれらの功績に対し栗下の現在地に屋敷を直々に賜り、日向14カ郷の盲僧を束ねる司を命じられました。 また、拝領した屋敷に寺院を建立し「聞法山・三徳院」と命名されました。 三徳院の由来沿革によりますと、808年、平城天皇の命で京都から下向した興悦阿闍梨が肥後国(熊本)託摩郡湯田荘園に「聞法山肥恵大寺」を開き、光明院と称しました。 その後、幾世代かを経て光明院を良音院が継ぎ、その弟子に南学院明心が真幸院馬閭田(真光地区上浦)の北別府の地に光明院を開き布教していました。 そこに肥後から良音院も来て、この地に光明院を復興させ、名を「三寶院」と改め、明心に一切の法義をゆずり開山(初代)としました。 しかし「三寶院」という寺が京都にある皇室の寺の名であることから2世・明久のとき「三徳院」と改名することになったといいます。
聞法山
天台宗
常楽院法流