当神社は長谷山の鎮の神として太古より大山祇神を祀っている。垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地域の「磯城厳樫の本」に約8年間天照大神をおまつりになった時随神としてこの地に手力雄神をまた北の山の中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座せられた。長谷寺縁起やその他の古文書によるとこの地方は三神の里初瀬川は神河表参道の朱塗りの橋は神河橋と書かれている。
長谷寺験記の冒頭には長谷寺開山の時の手力雄神の霊現と功徳が述べられている。 聖武天皇の天平2年(730)の大和大税帳には長谷山口の名が見え、当神社の古いことを物語っている。延喜式内社である。清和天皇の御代貞観元年(860)9月8日に風雨祈願の奉幣使が当神社に参拝されている。中世には天力雄明神を敬う明神講が生まれ明神信仰は今に続いている。
当神社本殿の建築につき慶長18年(1613)の棟札が残っている。 近世になり、明治42年初瀬平田にあった豊受神社の豊受姫神(保食の神)を合祀している。当神社の鎮座は遠く古代にさかのぼり、由緒は極めて深く、あまねく人々の安泰繁栄と五穀豊穣の祈願所として広く知られまた氏子里人の守護神として崇敬されている。