かとりこじじんじゃ
宮城県栗原市築館久伝
鹿島明神は東夷征伐の後に、此の地に入植した人々が常陸国鹿島より 黒瀬向山(三峰山)に御勧請したと伝えられる。 江戸期初期に現在地に遷座され、香取御児社と合祀する。 合祀後火災により社蔵文書、宝物..
鹿島明神は東夷征伐の後に、此の地に入植した人々が常陸国鹿島より 黒瀬向山(三峰山)に御勧請したと伝えられる。 江戸期初期に現在地に遷座され、香取御児社と合祀する。 合祀後火災により社蔵文書、宝物等焼失、元文二年鹿島神社別当、白 鹿山神宮寺、千手院が社殿を再建する。
現在旧黒瀬沼から出土した船の「膽(かい)」が神社に保存されている。 鹿島社は武の神で、祭神の建御雷命は建部(たけるべ)の長、すなわち 軍事集団の長官である。 鶯沢の白鷺山文書によると、応永二五年(一四八年)の文書に羽黒山先 達職黒瀬鹿島の大夫六郎なる人物に、黒瀬等四郷の「先達職成敗権が与 えられていた」と記している。
香取御児社は、延喜式神名帳に記された式内社 栗原郡七社のうちの 一社、香取御児神社と記載されている古社である。 御勧請については年代不明であるが、 神護景雲元年(七六七年) 城生野 に伊治城が造営された際に勧請されたものと推測される。 延喜式神名帳は延喜五年(九〇五年)に制定されており、香取社として は当時最北端の地にある式内社であった。 香取社は剣の神であり、祭神である経津主命のフツとは剣のことで、剣に宿る神霊が人格化されたものである。 安永風土記(一七七八年)に、村鎮守鹿島神社、別当は本山派観音院源求と記している。