しおがまいつくしまじんじゃ
山口県防府市大字田島2715番地
明和元年(1764)瀬戸内海沿岸の干拓の開発が進められる中で、鶴浜開墾に際し、長州7代藩主毛利重就(英雲公)が安芸国一宮厳島神社を守護神として、鶴浜に勘請され、さらに明和3年(1766)大浜築立の時..
明和元年(1764)瀬戸内海沿岸の干拓の開発が進められる中で、鶴浜開墾に際し、長州7代藩主毛利重就(英雲公)が安芸国一宮厳島神社を守護神として、鶴浜に勘請され、さらに明和3年(1766)大浜築立の時には本町の洞木(現在の児童公園)へも厳島神社を鎮祭され、鶴浜と洞木とに2つの厳島神社が建立されたのであります。翌、明和4年(1767)中関本町猿迫の猿田彦命を配祀する東向山光永寺の良遂和尚が桂木屋弥兵衛なる者を従えて奥州一宮(宮城県)塩竃神社へ参詣し、鶴浜・大浜の繁栄のためにと御分霊(塩土老翁)を拝し、明和5年(1768)3月、中関へ帰り光永寺内の猿田彦命を祀る祠に合祀したのが塩竃神社の創建であります。東向山光永寺は藩命により天保14年(1843)頃に解除され萩の海潮寺へ引寺されましたが、「中関塩竃社覚書」と言う古文書によると塩竃社は天保年間(1830から1843)に現在地に移鎮されたようで、その後は中関の浜人によって維持運営されてきました。以来、地元では右の3神社を氏神様として崇拝してきましたが、明治40年、県の告踰に基づき鶴浜の厳島神社を塩竃神社へ合併、更に昭和40年に洞木の厳島神社をも合併して今の塩竃厳島神社と成ったのであります。江戸時代には、先の三神社の祭典・営繕等のほとんどを藩主毛利家より支給されていた由緒があり、特に塩竃神社は先の古文書によると「三田尻御勘場へ、明和3年より昨卯年まで御祈祷の札納め来り候。徳山御領浜、岩国御領浜、下松平生浜、大島郡小松、青江浜遠波浜、赤崎浜へも御札配当仕り来り候」と見え、戦後の塩田廃止までは周防国一帯の塩田の総鎮守として尊崇された神社であります
市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命、塩土老翁、猿田彦命
明和元年
明神様
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