そううんじ
佐賀県嬉野市嬉野町岩屋川内甲1554
天正四年(1576年)横沢城の合戦で治乱記に名前が登場するのは、宇礼志野越後守直通、同名陸奥守通益、同子息与右衛門尉、同名大和守の四名であります。越後守直通は合戦半ばに突然、龍造寺方に翻った一人です..
天正四年(1576年)横沢城の合戦で治乱記に名前が登場するのは、宇礼志野越後守直通、同名陸奥守通益、同子息与右衛門尉、同名大和守の四名であります。越後守直通は合戦半ばに突然、龍造寺方に翻った一人です。 最初から龍造寺方と示し合わせていたのは陸奥守通益(玄可)と、その子息与右衛門尉です。これに同調したのが大和守直純であったと推察されます。 嬉野系図には大和守は大村殿の養子で、初めは鷺ヶ岳の城主とあります。この鷺ヶ岳は鳥坂村にあります。 徳島治部太輔 永田左京亮 吉田太郎右衛門尉 嬉野淡路守 嬉野左衛門助 嬉野大和守 これは嬉野大和守通純の墓碑に書かれた文字です。 墓碑は嬉野町上岩屋の岩泉庵にあり、その子孫は鍋島直茂が元茂に預けた八十三士衆の中にいます。 嬉野小右衛門(嬉野大和守子)で嬉野彦左衛門長亮の祖となります。 嬉野大和守の墓碑は、戦後に上岩屋の岩泉庵墓地から下岩屋の宗運寺に移されています。嬉野大和守通純が、世の無常を悲しみ、仏弟子となり、「宗運」という戒名を授かり、寺を建てたことが、この宗運寺の始まりであります。
道場山
法輪院
浄土宗
阿弥陀仏
有り