今より約八百年前、源頼朝卿が伊豆に蟄居のときのこと、兵糧でもある米穀に乏しくならぬよう稲荷の神体を彫刻し、伊州北条に一社を建立したのが当社のおこりと云われています。後に伊勢新九朗(後の北条早雲)が小田原城に移った際に、その神体を城内へ遷座したところ多くの奇端が顕れたといいます。このことから開運稲荷と称されました。
小田原城落城に至り、この稲荷には信心あつかった小西右衛門という者の夢に稲荷の神があらわれ「我を供奉し隅田の辺に下るべし」と御告げがあり、天正十八年、小西は神体と鈴とをもって当所に仮殿を設けることにしました。仮殿を建てんとしたところ土中より一仏が出現し、洗い清め見ると十一面観音であり、実に稲荷の本地仏なりと喜び本社へ移し奉りました。
のちに奇端あらたなることから、徳川四代将軍家綱公より町屋御免を賜り、当地へ遷座しました。霊験あらたかにして諸穀の豊穣を司り、願望を成就せしめ一切の災を除く故に、参拝の輩は群集をなし、神籬にそですり通うことから「袖寿里稲荷」が神号となり、「袖摺稲荷」と変化しました。
平成二十年 袖摺稲荷神社 (境内の縁起より)