(境内説明板より)
三徳稲荷神社の名前が初めて現れたのが宝暦六年(一七五六年)浜竹村に建立されると記されております。(糀谷史の記述)実際、三徳稲荷神社にも伏見稲荷大社よりの書き付けがあり、その文面の年号記載には宝暦八年(一七五八年)二月七日武州六郷村浜田(浜竹)新井(荒井)五郎左衛門宛てに従五位上 摂津守荷田宿彌春郷と記載。
その事により神社は宝暦六年(一七五六年)に建立された事を物語っております。
その後、明治から大正と至り、先の関東大震災で神社は消滅。大正十三年に三徳稲荷神社を再建。
その後、先の大戦で再び、神社も神輿も全て焼失しました。
戦後はアメリカ軍の占領により、神社は跡形もなく、また神社の土地はアメリカ軍に接収され、返還後に小さな神社を再建しましたが物資のない時代のため痛みが激しくなり、昭和四十年に現在の神社が氏子達の協力により建立され現在に至っております。
三徳稲荷神社の「名前」の由来
三徳とは「三つの徳を授ける」と言う意味であり、その実は(七福神)の福禄寿が起源とされております。中国、宋の時代(、六〇頃〜一二七九年頃)に現れた実在の博士。天南星(年齢は数千歳であったと言う)の化身や南極星の化身(南極老人)とされております。
又、泰山府君(たいさんふくん)であるとも言われる。「泰山」とは中国の五山の一つで、その神が「寿命」を司る事から関連つけられた様である。泰山府君信仰が伝わり、福禄寿が長寿の神として信仰された。
「福」幸運になりますように
「禄」封禄が授かるように
「壽」長生き出来ますように
と言う願いを叶えてくれると言う「三つの徳」であります。