壽光稲荷は社伝によれば今より約一千年近き昔、陸奥の国の武将某(一説には阿部貞任・宗任兄弟)が京都伏見の稲荷大社の御分霊を国に祀るため御霊代を奉持して京都からの帰国の途中、磐城国東白河群に到りし時国元に俄に戦乱の気が起こり急ぎ帰国する事になり御神霊を塚本村館の山に鎮祭し『戦い利有らばお迎えに参るが戦い利無き時はこの地に留まり給え』と祈願して帰国、敗戦してそのまま徳川末期まで鈴木氏によって祀られていました。慶応三年鈴木与吾平の代に至って娘サダ女に信託があり『この稲荷を諸国にひろめ病難貧苦の者を救うべし』とお告げが有り公文所にて御神名を取り調べ『壽光稲荷大神』の御神号が解かり、以後本社を常陸国行方(現在地)に遷し神道修成派に所属し、(現在は単立宗教団体)布教活動を行いました。
ここに鎮祭する壽光稲荷は明治十六年頃より下谷、浅草、神田、小石川、本所、向島、埼玉草加、越谷、浦和などに信仰する信者が多数集まり、信者の一人川添はな宅の一室に御神霊を奉斎して布教活動を行いましたが明治二十八年東京府の認可を得て神道修成派の神道教会として布教活動に従事致しましたが、明治三十三年現在のこの場所に遷座いたしました。
なお藤の木は明治三十三年に庭の池の辺に信者の園芸農家の奉納により植栽したものと伝わっております。又一対の春日灯籠は北海道松前藩の藩主の末裔が大正九年に奉納したものです。大正十二年の関東大震災のおり二つとも大火災に遭遇しましたが、藤の木は焼け落ち花崗岩の灯籠は蕨手などにひびが入り火災の恐ろしさが解ります、藤の木は地面より切り離しましたが翌大正十三年に蔓が伸びて現在の状態になっておりこの二つは火災の恐ろしさと生命力の強さを象徴しているものと思います。
(壽光稲荷略由記 より)