当社の創祀及び中世迄の由緒については詳かにし難い。平安時代には、『延喜式』神名帳訓みの「キタ」については「オニタ」「キタ」「シコタ」等多くの訓みがあるが、神社名の「キタ」と訓まれたのは近世に入ってからである。しかし、鎮座地名の「木田」については、「鬼田」は「キタ」で「北」と訓み「鬼田」「鬼太」はこれを表現したものとの説もあり村名のキタと社名のキタとの類似を指摘している。ギタについて、西川順土氏は『内宮文殿本神鳳鈔』をひいて、「これは鈴鹿川を中心にした北と南の御厨という、「キ夕」を生かした表現であろう」と述べている。近匝には「若宮八幡」とか「今八幡」と称せられており、『神戸藩明細帳』は「木田村式内鬼田神社」と記している。木田地域の氏神社として崇敬された。明治四一年に若宮八幡社 稲荷社 山神社の三社を合祀し、同四三年(一九一〇)には河田村の村社 川神社に合祀された。然し合祀は名目のみで、実際は川神社の飛地境内社として存在した。昭和二七年正式に分祀されて現在に至っている。