創建年不詳。元弘元年(1331)、赤松則村が挙兵し、兵庫の摩耶山に本拠を構えた時、北方の備えに、当社の背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建し戦勝を祈願したと伝えられる。
天正年間(1573~)、三木城主別所氏の家臣小野三郎義晴が切畑城を築き、当社境内に居館を設けていたが、羽柴秀吉軍の三木攻めの時、兵火により社殿を焼失した。その際、義晴は御神体に兵火がかかるのを免れる為、背後の谷間に埋めた。その後、村民が御神体を掘りおこし社殿を再建して奉安したと伝えられるが、その年月は不明。
昭和59年(1984)5月、放火で社殿は全焼したが、翌60年(1985)に再建した。新社殿は今後の火災を恐れ、鉄筋コンクリート造りとし、大きさは約30平方メートル、屋根は桧の枠組みに銅板葺きとした。
以前の社殿は、横長の鞘堂内に一間社流造の社殿が五社並んでいた。昭和55年(1980)に文化庁の調査が行なわれ、社殿が室町時代の作とみられ、国の重要文化財に指定するかどうか審議中に放火で全焼した。五社の地名も、この「五社並祀」の当社があることから名付けられたといわれる。