こうずけさんぴ かないざわひ
群馬県高崎市山名町2334
上野三碑とは、群馬県(古代上野国)高崎市南部地域に所在する、飛鳥・奈良時代に造立された三つの石碑の総称です。日本国内で現存する平安時代以前の古碑は、わずかに18例に過ぎず、高崎市域における三例の集中..
上野三碑とは、群馬県(古代上野国)高崎市南部地域に所在する、飛鳥・奈良時代に造立された三つの石碑の総称です。日本国内で現存する平安時代以前の古碑は、わずかに18例に過ぎず、高崎市域における三例の集中は、歴史的にきわめて特筆されます。
金井沢碑は、奈良時代初期の神亀三(726)年に、三家氏を名乗る氏族が、同族とともに仏教の教えで結びつき、祖先の供養、一族繁栄を祈るために 造立した石碑です。 三家氏は、山上碑に記された「佐野三家(さののみやけ・屯倉)」を経営した豪族の末裔とみられます。碑文の冒頭に「上野国群馬郡(こうずけのくにくるまのこおり)下賛郷高田里(しもさぬのさとたかだのこざと)」と刻まれていることから、その居宅は現在の高崎市南部、烏川東岸の佐野(賛・さぬ)地区に存在したようです。 しかし、本碑や山上碑は、その対岸にあたる烏川 西岸(山名地区)に所在するため、佐野三家の領域および三家氏の勢力圏は、広く烏川両岸に及んでいたと考えられます。 碑文には、続けて九人の名前が刻み込まれています。彼らの関係はこれまで様々に解釈されてきましたが、近年では、願主で男性の三家子□(□は欠字)およびその妻―子―孫からなる六人の直系血族(うち女性四人)グループと、同族三人からなる既存の信仰グループが結びつき、この碑を造立したとする説が支持されています。 また碑文からは、大宝律令(701年)以後に定まった行政制度(国郡郷里制)の施行が確認できるほか、郡郷名を好字で二字に改訂することを命じた和銅六年(713年)の政令の実施も確かめられます。これに伴って、従前の「車(くるま)」の表記は「群馬」(読み はそのまま「くるま」)の二字に変更され、今日の県名のルーツとなっています。なお、本碑の「群馬」の文字(碑では「羣馬」)は、在地において最古の「群馬」の用例です。 さらに、一族の系譜の書き方などから、上野国でも戸籍づくりが行われていたと考えられます。 このように本碑は、古代東国の家族関係・氏族関係、仏教の普及と有力な仏教教団の成長、地方行政制度の実態などを知るうえで、きわめて重要な史料です。
JR高崎駅から上信電鉄「根小屋駅」下車、徒歩10分
無料
有り