みょうほうじ
北海道河東郡音更町字東士狩西6線67
寛政5年(1792年)ころ、智了という人が、越中国上新川郡下砂子板村に、一つの草庵(養楽寺の分家寺で妙法寺の前身)を建て、浄土真宗本願寺派・養楽寺に師事したのが始まりである。 その後、明治13年(..
寛政5年(1792年)ころ、智了という人が、越中国上新川郡下砂子板村に、一つの草庵(養楽寺の分家寺で妙法寺の前身)を建て、浄土真宗本願寺派・養楽寺に師事したのが始まりである。 その後、明治13年(1880年)、智了から数えて四代目にあたる石田周賢師の時、石川県令(知事)・千坂高雅により、妙法寺と寺号公称の許可を受けました。 当時、全国各地から北海道への開拓団の入地・移住が盛んになっていました。 その中で、東士狩地区に入地、開拓の鍬を入れていた富山県江波団体員の間では、同地区にての一寺建立の思いが高まっていました。 義教寺(幕別町)の初代住職であり、石田周賢師の長男でもある梅原薩玄師は、当東士狩地区において開教にあたられ、妙法寺移転の基礎を築かれました。 明治39年(1906年)、周賢師遷化の後、妙法寺を守っていた石田ノブ(初代坊守)が、阿弥陀さまのお共をして、妙法寺は富山から東士狩へと移転、同じ富山県から入地していた江波団体に迎えられました。(大正2年(1913年)、正式許可)。 同年6月には、入地から間もない大変苦しい生活の中、門徒みずからので役によって妙法寺本堂が創建されました。着任された第六代住職・梅原薩玄師は、多くの人々に、御同朋・御同行の、浄土真宗のみ教えを広められました。 その後、昭和26年(1951年)に、現在の本堂が完成しました(第九代住職・石田信誠師)。 昭和53年(1978年)には本堂の大改修が行われ、さらに平成元年(1989年)には現在の納骨堂と講堂も完成し、今日の妙法寺の姿になりました。 その法灯は、第十代・釈秀誠(石田秀誠)まで相続され、その後2018年10月には継職法要により第十一代住職石田智秀師に相続され現在に至っています。
念報山
浄土真宗
本願寺派
1792年
阿弥陀如来
報恩講 10月30日、31日 常例法座 毎月9日
JR帯広駅より車で約25分
有り