なのかまちかんのんどう
山形県鶴岡市本町2丁目11-7
睦町(旧吉住町)の龍蔵寺が昔奥州会津温塩という所の慈眼寺(この寺は歴史的に有名な殺生石を済度した玄翁和尚の開基の寺)開基から四代目後柏原院の御代永正年中の頃、 市の西方千安京田に禅林宝雲山龍蔵寺開山..
睦町(旧吉住町)の龍蔵寺が昔奥州会津温塩という所の慈眼寺(この寺は歴史的に有名な殺生石を済度した玄翁和尚の開基の寺)開基から四代目後柏原院の御代永正年中の頃、 市の西方千安京田に禅林宝雲山龍蔵寺開山量山善思禅師が分寺建立された。 その時に聖徳太子の彫刻なされた観音・弥勒の二尊像を拝受した。 それより上杉家の領地となり、後二十余ヶ年間の合戦の街となって、寺は悉く焼失し、 この時、観音・弥勒の尊像および古什物、過去帳等紛失した。 その後後陽成院の御代慶長六年善宝寺十世の住職骨念雲徴禅師が龍蔵寺を再建された。 慶長十一丙午の年、出羽大守義光公は、大梵字の地名を鶴ケ岡と改め吉地の古城を補造した。 その時に七日町より出た人足が内川辺の補造にあたったら、 以前に紛失した観音・弥勒の二尊像が出世されたので義光公に奉ったところ御喜びになり、 現在の地に清水山柳福寺を建立なされ、その観音・弥勒の二尊像を本尊に安置した開帳仏がこれである。 七日町より出た人足共掘上げ奉ったの称美として吉地の吉の字を七日町の紋章としてたまわった。 菱吉の紋がそれである。 爾来三百七十余年七日町々内で護持し、その縁起により午年開帳仏として御開帳祭を斎行して現在に至る。 明治二十一年五月八日の大火災により柳福寺は類焼し再建出来なかったので、 七日町信徒により現在の七日町観音堂が再建された。 明治四十二年四月南丘寺の所属として護持管理一切は総て七日町観音堂として七日町々内で行なっている。 霊験あらたかにして庄内は申すに及ばず各方面に数多くの信者がいる。 庄内三十三番札所の二十九番の霊場並に平和観音百霊場の十二番の霊場として昔ながらの札うち姿(巡礼姿)の参拝者がたえない。 尚、大志尊像の縁起は龍蔵寺にある。祭典としては、八月九日 夏祭 十二月十七日 御歳夜祭 だるま市で賑やかである。 午歳御縁年の御開帳祭 十二年目毎に斎行される。 近年は昭和五十三年に三十一回目三百七十二年祭を芸行した。 毎月十七日は町内の観音講日として賑やかである。
境内 案内表示 より
鶴岡駅から徒歩26分