大領神社は、仁多郡を治める役所「郡家」がこの集落にあった頃、郡の長官にあたる大領の職にあった蝮部臣が、集落南西の菅火山(現在の城山)にあった須我乃非社、(出雲国風土記に記載)を、郡家の鬼門鎮護のため集落北東 (現在の赤子岩に隣接した山の上部)に移したのが始まりとされています。創建の正確な年代は不明ですが、現在は廃寺となっている高田寺の縁起を記した「高田寺根源録」によれば、高田寺の本称は神宮密教寺であり、大同二年(八〇七)に大領神社の神宮寺として創建されていますので、文書に従えば、それ以前と考えられます。創建後、蝮部臣は祖先の霊を合祀して氏神としたので仁多郡の一の宮となり、中世以降も朝廷からの勅使や寄進があるなど、重要な神社として人々に崇敬されてきました。そして、 延宝二年(一六七四)九月十四日になると、参拝上の利便などから現在の位置に移されました。また、大正十二年には、島根県知事財部実秀の参拝があり、拝殿の社号扁額は参拝の際に知事が自ら揮毫し奉納したものです。
大領神社は、出雲国風土上記の時代からの流れを汲み、古代豪族との関わりを持つ歴史の深い神社であり、この集落に郡家があった時代の名残の一つとして重要な文化遺産と言えます。