天正2年(1574年)、かねてより所領独占問題において対立関係にあった平泉寺勢力との戦いに向けて、地元勢力である大野・南袋・北袋・七山家[1]の一向一揆勢によって築城が取り決められ、七山家の人々によって築かれたと言われている[2]。そして平泉寺は匿っていた朝倉景鏡を大将とし、一揆勢が立て篭もる村岡山城に攻め入るが反撃に遭ってしまう。その最中、援軍で駆け付けた一揆勢に手薄になった平泉寺を焼き討ちされ、景鏡は討たれてしまう。さらに出陣していた平泉寺勢も村岡山城の一揆勢の追撃に遭い、壊滅してしまう。この一連の出来事により、一揆勢は御立山をかちやま(勝ち山)と呼ぶようになり、現在の同市地名の由来になったと伝えられている。
その後織田信長勢力による越前一向一揆鎮圧後は柴田義宣(しばたよしのぶ)、一揆残党により義宣が討たれた後は[3]柴田勝安が城主となった。しかし天正8年(1580年)、麓に勝山城が築城され、廃城となった。