員弁川支流田切川の西に在る。勧請年月不詳。『天明四年(一七八四)御領内控記』に「向平村 氏神諏訪大明神。山の神 ニケ所。」とあり、『文政七年(一八二四)村明細帳』に「神祠に多喜諏訪大明神(向平・畑毛・塩崎三ケ村の氏神)。山ノ神二社あり」とあり、『員弁雑誌』には「諏訪大明神社 村の北京ケ野東原に在、向平・塩崎・畑毛三ケ村の産土神なり、例祭八月一九日。 山神あり」とある。即ち当社は、片は向平・畑毛・塩崎の三ケ村の氏神であったので三郷の宮ともいう。更にその昔は、向半・下平・西貝野・畑毛・塩崎・田辺・二之瀬・小原一色の八ケ村の共有社であったことをしめす慶長一九年(一六一四)の棟札があるという。尚、往古に塩崎村の大東与太夫・畑毛村の室谷啓次右衛門・向平村堂道某の三人が信州の諏訪大社から分霊をいただき、奉斎したのが当社の創始であるとの説もある。