東門山西福寺は豊原院釈正西によって創められました。
正西は江州坂田郡(現在の滋賀県米原北方)の出身で、主君浅井氏が織田信長に滅ぼされたため、再び武門に仕えることを望まず、しばらくは丹波方面に隠棲しておりました。しかしながらその丹波も明智光秀に蹂躙され、信長と大阪石山本願寺の間との合戦が激しくなってきたとき、本願寺方に加わりました。天正8年(1580年)本願寺が信長と和睦したため剃髪し、現在地に草庵を建てました。
西福寺や正西の「西」は西方浄土を示すもの、また、山号の東門山(とうもんざん)は極楽浄土の東門、甲山の東の門といった意味合いであったろうと思われます。
西福寺の歴史
現在の本堂は明治30年(1897年)に再建を開始し、10年の歳月をかけて明治40年(1907)、外郭が出来あがりました。
以後、大正時代になって天井張り、柱その他の金箔押しなどの工事が行われ、現在の山門も建てられましたが、昭和初めの地区整理事業にともなう道路拡張により、旧鐘楼、旧東門を撤去し、現在の鐘楼門は昭和10年に建てられました。
また、西福寺は「鍼(はり)の寺」としても知られていました。代々、西福寺では坊守が鍼灸師の資格をとり、門信徒や地域の人たちの治療にあたってきました。「はりの寺」の瓦せんべいを覚えている門信徒も多いと思います。
戦争が終わり、以後50年近くの間に、御門徒の懇念により、本堂の荘厳は年を追って調ってきましたが、悲しいことに去る平成7年1月17日の阪神淡路大震災によって、本堂、正門、鐘楼門、仏具庫は大損害を被り、他の建物はすべて崩壊しました。前住職、坊守、法嗣の3名が亡くなり、門徒の家々も数多く崩壊し、六十余名の死者を出しました。
その後、本堂、山門、鐘楼門、仏具庫は大修理を行い、庫裏等を再築しました。平成12年から13年にかけては本堂屋根瓦の葺き替えや、集会所の建築、同14年には駐車場の拡大等を経て、平成25年には集会所を造設し、現在に及んでいます。