こうたくじ
佐賀県唐津市鎮西町名護屋3673
朝鮮出兵の野望を胸に名護屋に赴いた秀吉は、松浦一の美女と誉れ高い名護屋越前守の妹・広子を側室に迎え、山里丸とよばれる名護屋城の一角に住まわせました。このとき広子は20歳、名を広沢局と改めています。秀..
朝鮮出兵の野望を胸に名護屋に赴いた秀吉は、松浦一の美女と誉れ高い名護屋越前守の妹・広子を側室に迎え、山里丸とよばれる名護屋城の一角に住まわせました。このとき広子は20歳、名を広沢局と改めています。秀吉は寵愛する広沢局のため、慶長2年(1597年)この地に「広沢寺」と命名した寺を建立。寺の石段は、秀吉に可愛がられた刀の鞘づくりの名人・曽呂利新左衛門の設計によるものとか。寺に残る樹齢400年の大ソテツ(国の天然記念物)は、秀吉が手植えしたものと伝えられています。しかし、寺を建立した翌年に兄夫婦が急逝、同年8月15日には秀吉もこの世を去ります。悲しみのどん底に突き落とされた広沢局は仏門に入り、「妙廣禅尼」として64歳で亡くなるまで主君・秀吉、兄夫婦、朝鮮の役の戦没者の菩提を弔いました。寺の片隅には、広沢局のお墓がひっそりと建っています。
池福山
曹洞宗
1597年
観世音菩薩
豊臣秀吉
廣澤寺
豊臣秀吉遺髪塚 秀吉手植えのソテツ
有り 但し参道は急坂で狭いので、参道口左右の空き地がおすすめ