かったじんじゃ
北海道登別市中央町6丁目24-1
当神社の創祀は明らかではないが、平安朝の末期渡来していた眼病の和人が、アイヌ人に教わり温泉で目を洗ったところ、眼病が快癒した。その和人は、妙見菩薩の加護ではあるまいか、と感謝の意を込めて祠を建てた、..
当神社の創祀は明らかではないが、平安朝の末期渡来していた眼病の和人が、アイヌ人に教わり温泉で目を洗ったところ、眼病が快癒した。その和人は、妙見菩薩の加護ではあるまいか、と感謝の意を込めて祠を建てた、という伝承がある。 天明6年(1786)、幌別郡(現・登別市)が松前藩士細田儀右衛門の給地に指定されたのを契機に、妙見菩薩の祠を再建し、胆振地方の鎮守社とするため保食神を合祀し、妙見稲荷社と称した。明治3年(1870)、白石藩城主片倉小十郎邦憲が家臣百五十余名を従え胆振国幌別郡へ移住し、片倉氏の総守護神刈田嶺神社(延喜式内社、陸奥国刈田郡総鎮守、別名・白鳥大明神)の御祭神である日本武尊の御分霊を奉じて合祀し、幌別郡開拓の守護神とする。明治3年(1870)、白石藩城主片倉小十郎邦憲が家臣百五十余名を従え胆振国幌別郡へ移住し、片倉氏の総守護神刈田嶺神社(延喜式内社、陸奥国刈田郡総鎮守、別名・白鳥大明神)の御祭神である日本武尊の御分霊を奉じて合祀し、幌別郡開拓の守護神とする。明治4年(1871)、御社殿を幌別村字浜七十番地(現・幌別町一丁目)に新しく建立し、社名を刈田神社と改称し、これより幌別郡の開拓者の心の支えとして御鎮座する。 明治6年(1873)四国からの開拓者が金比羅宮(式内社、旧国幣中社)の御分霊を奉じて合祀する。 明治8年(1875)には、幌別郡の郷社と公称する。 明治14年(1881)には、現在の境内地(中央町六丁目)へ御遷座する。 明治15年(1882)には、神饌幣帛料供進神社に指定される。
刈田神社(かったじんじゃ)は、北海道登別市中央町にある神社。創祀は平安時代末期とされる。旧社格は郷社。
保食神(うけもちのかみ) 大物主神(おおものぬしのかみ) 日本武尊(やまとたけるのみこと)
8月23日
神鏡 片倉家陣太鼓
JR幌別駅より徒歩11分