創建年代は不詳だが、もともと甲斐国小比賀村(西八代郡帯金、現・南巨摩郡身延町と推定される)にあったて、創建は空賢・空信・空了・了心の4代があったことからみて嘉吉もしくは文安年間と考えられている。
大永元年(1521年)、5世・沙門正了(武田信玄の舎弟又は近親)が讃岐国坂田郷(現・高松市鶴尾)に移転させた。この時付近の室山から山号を無漏山とした。この時門徒であった真田家(現・京都の山城屋)・木村家、宮武家の三家や、深妙寺・常善寺・由佐西光寺といった関係の深い三寺も付近へ移った。
文禄3年(1592年)、高松城主・生駒親正の命で城下東浜(現在、旧鶴屋町小学校付近の鶴屋町)に移された。このころ、住職・覚玄が石山戦争のときに教如上人のもとで奮戦したことに対して感じ入った本多忠勝より、家康から忠勝が拝領した陣羽織を奉納されている。
寛永16年(1639年)9月には4代城主・生駒高俊によって、檀那寺と定めた浄願寺が現在の中央公園に造営された。これに伴い、浄願寺跡へは浄土宗・正覚寺を、正覚寺跡(現在地)へは福善寺を移転させて寺町を形成した。このときの書院には頼山陽が逗留したこともあったという。
元録7年(1694年、)讃州府誌や讃岐名所図絵等などによれば高松藩主・松平頼重によって堂宇を修復された。
明治23年(1890年)2月15日、高松に市制が施行されると初代市役所は福善寺本堂に間借りする形で開庁し、明治34年(1901年)10月5日に浄願寺へ移転するまで市役所が置かれた。
以後、諸殿の修理や庭園の補修を積み重ねたが、昭和20年(1945年)に高松空襲で全焼し、全ての堂宇が失われた。翌年3月までに跡地に12坪の住宅を建ててそこで行事等を行い、寺としての機能は勅使町西小山の借屋を仮本堂とした。
昭和22年(1947年)5月、跡地に50坪の庫裡兼仮本堂を着工し、延べ1千数百人に及ぶ門徒の勤労奉仕で造営が開始された。
昭和29年(1954年)4月、広大な空き地に「ふたば幼稚園」を設立し、住職が園長を兼務したが、導入したスクールバスの事故によって責任問題となり、昭和38年(1963年)3月をもって廃園とした。その跡地には四国教務所(四国会館)が建設され教化センターとして利用されることとなった。
その後会館に対してふさわしい本堂を建てようということになり、戦後の建物は全て撤去された。昭和42年5月4日、鉄筋2階建て参道を含めて348坪の現本堂が竣工された。