てんねいじ
秋田県仙北市角館町上新町10
元和6年(1620年)、義勝は今日「古城山」と呼ばれる残丘に城館を築き、城下町を北の神代本町から南の勝楽に移し、現代の角館城下町の基礎となる町割りをおこなった。このとき、旧地会津若松の萬松山天寧寺を..
元和6年(1620年)、義勝は今日「古城山」と呼ばれる残丘に城館を築き、城下町を北の神代本町から南の勝楽に移し、現代の角館城下町の基礎となる町割りをおこなった。このとき、旧地会津若松の萬松山天寧寺を本寺として、その山号と寺号をそのまま譲り受けることとなり、寛永のはじめ(1624年頃)、蘆名義勝を開基とし、義勝の帰依厚い横手の正平寺七世鉄心快牛を中興開山に招いて、城下東方の「花場山」の麓に創建した。寺領は90余石。秋田市松原の補陀寺および湯沢市山田の最禅寺とならび秋田在三か寺の一と称された名刹であった。
天寧寺(てんねいじ)は、秋田県仙北市角館町上新町に所在する曹洞宗の寺院。山号は萬松山、本尊は釈迦如来(釈迦牟尼仏)。
萬松山
釈迦牟尼仏
寛永8年(1631年)
中興開山である鉄心快牛は、寛永8年(1631年)に死去した蘆名義勝の葬礼の導師を務めたあと、本寺である会津天寧寺、さらには関東在三か寺(関三刹)の一である下野国下都賀郡の大中寺へと昇任したが、晩年は不遇となって故郷へ戻り、秋田領平鹿郡赤坂村(現横手市)の安養院で91歳の生涯を閉じている。
北国八十八ケ所霊場 第49番札所
無料
あり