ひたかみじんじゃ
宮城県石巻市桃生町太田字拾貫壱番-73
古来この地方に伊勢津彦尊が居住しており、高皇産霊神の子孫天日別尊に亡ぼされる。尊はそれを皇孫に奉ったとあり、神武天皇の御世に天日別尊を祀って日高見宮としたと伝えられる。景行天皇25年、勅を奉じて武内..
古来この地方に伊勢津彦尊が居住しており、高皇産霊神の子孫天日別尊に亡ぼされる。尊はそれを皇孫に奉ったとあり、神武天皇の御世に天日別尊を祀って日高見宮としたと伝えられる。景行天皇25年、勅を奉じて武内宿禰が北陸及び東国を巡察、同27年帰朝して奏言するに「東夷に日高見の国あり、人勇敢にして土地沃穣なり撃って取る可し」とあり、同40年、皇子日本武尊は上総から海路陸奥に入り竹水門(七ヶ浜塩釜港附近)から日高見の国に到り賊を平定したとされている。この時、尊は武運を祈願し、皇祖天照大神を祀って日高見神社が建立されたと伝えられる。続日本記には、宝亀11年(780)「百済王俊哲等が賊に囲まれ桃生白河等の郡神十一社に祈る」の項に日高見神社の社名がありそれが初見とされている。桓武天皇の延暦21年(802)正五位上勲五等に叙し、続いて三代実録の貞観元年(859)「陸奥国日高見水神に従四位下を授く」とあるので、往古は北上川の水神を祀った社とも言われている。第70代後冷泉天皇の康平暦年中(1058~1069)源義家が安倍貞任討伐(前9年の役)の折、神殿を造営して日本武尊、武内宿禰を併祀し、祭田を寄進したとされている。社殿左右に祀る日本武尊、武内宿禰尊の二神像は寛永年間に造られたものである。
式内社(小)陸奥国桃生郡日高見神社に比定される