みょうふくじ
栃木県さくら市馬場108-1
江戸時代の天保2(1831)年、糟谷五郎衛門が法華経を深く信仰し、屋敷内に宗祖日蓮大聖人を祀る「祖師堂(そしどう)」を建立し、法華経信仰の道場としたのが始まりとされる。 その後「祖師堂」は、御前城..
江戸時代の天保2(1831)年、糟谷五郎衛門が法華経を深く信仰し、屋敷内に宗祖日蓮大聖人を祀る「祖師堂(そしどう)」を建立し、法華経信仰の道場としたのが始まりとされる。 その後「祖師堂」は、御前城址の一角、天王社・弁財天等のあった弁天山に移転され、明治期には「おそっさん(お祖師様)」として親しまれ、人々の信仰を集めた。 氏家郷土誌』によれば、「祖師堂」は信者の修行の場であり、次第に信者が増加するにともない明治28(1895)年に公許を得て教堂が建てられ、祈祷・礼拝が行なわれた。特にうちわ太鼓をたたいて町内を行脚する寒行は、信者たちの厚き信仰心を鼓舞するものとして町の人々の眼を惹き、また冬の風物詩としても親しまれていた。
大正時代に入り、野澤義光上人は、しばしば近隣の市町村にも請われて出張し、家相・方位・運命鑑定等のほか秘伝の祈祷によって人々の信仰を集め、教線を拡げていった。義光上人の指導のもと人々の法華信仰がいよいよ隆盛し信者が増加するにつれて、布教の拠点の必要に迫られ、「祖師堂」の寺院格上げ運動が起こった。
計画が具体化されたのは大正12(1923)年であったが、明治初年の廃仏毀釈の風潮は依然として根強く、新たな寺院を正式に建立することは甚だ困難であった。
野澤義光上人の不退転・死身弘法の努力が実を結び、伊豆利島の真如山海岸寺を移転・継承することで、氏家の地に初めての日蓮宗寺院を建立することに成功したのが大正15年(1926)年のことである。
真如山海岸寺は、室町時代半ばに文明院日浄上人(文明元(1469)年遷化)によって法灯がともされた身延山久遠寺直末(直接の末寺)の名刹であるが、海のない氏家の地に海岸寺の名称は相応しくないとして、正法山彰久院妙福寺と改称し、当山中興の祖である彰久院日應(野澤義光)上人が、中興開山第20世として海岸寺第19世一乗院日教上人(明治32(1899)年遷化)の跡を継承された。
山号の正法とは末法救済の大白法である一大秘法妙法蓮華経のことであり、寺号の妙福は、妙法蓮華経の功徳による万民の願いの実現を意味する。院号の彰久は、中興開山日應上人の法号による。
彰久院日應(野澤義光)上人が昭和43年に遷化された後、第21世野澤文立上人〔現院首・別院慈久結社教導〕は、昭和44年に新本堂の建立、47年には客殿・庫裡の建立、63年に本堂・客殿の増改築等々次々と寺観一新を成し遂げた。また布教教化の成果著しく檀信徒も急増し、現さくら市唯一の日蓮宗寺院法華信仰の道場としてさらに多くの人々の信仰を集めるに至った。
開山彰久院日応(昭和43年2月5日寂) 。開基本正院日義 (大正15年4月12日寂) 小西法縁。天保2年に糟谷五郎衛門が一宇建立。 昭和2年、 伊豆利鳥の海岸寺を寺号移転。後妙福寺と寺号改称。 同44年本堂建立、同48年庫裡、書院建立。
正法山
彰久院
日蓮宗
天保2(1831)年
日蓮大聖人奠定大曼荼羅
糟谷五郎衛門
大正15年(1926)年
彰久院日應(野澤義光)上人
正法山彰久院妙福寺
おそっさん(お祖師様)
○電車でお越しの方 JR東北本線(宇都宮線) 「氏家駅」下車 徒歩7分(531m) ○バスでお越しの方 氏家駅~西船生(しおや交通) 「高校前」下車 徒歩4分(269m) 宇都宮東武-馬頭車庫(東野交通) 氏家駅~西船生(しおや交通) 宇都宮東武-喜連川温泉(東野交通) 氏家駅前-喜連川温泉(東野交通) 「氏家駅入り口」下車 徒歩6分(458m)
有り(境内)