みょうぎじんじゃ
東京都豊島区駒込3丁目16-16
日本古代史における伝承上の英雄 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、当時東国にいた民族である蝦夷を討つために東征した際、この妙義神社がある場所に陣営を構えたと伝えられています。 日本武尊が東征し..
日本古代史における伝承上の英雄 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、当時東国にいた民族である蝦夷を討つために東征した際、この妙義神社がある場所に陣営を構えたと伝えられています。 日本武尊が東征した後、この地に社が建てられ、日本武尊が白鳥に生まれ変わり飛び立ったという伝説から、白雉(はくち)2年(651)5月12日、白鳥社と号しました。 豊島区内では最古の神社として伝えられています。
また、「新編武蔵風土起稿」※によると、最初に江戸城を築いた室町時代後期の武将 太田道灌は、文明3年(1471)5月、古河公方 足利成氏との戦に出陣する際、当社に参詣し、神馬、宝剣を寄進し戦勝を祈願しました。 その時、近臣である樋口与三郎兼信と次のような連歌を詠んだと伝えられています。
雲はらふ この神垣の風の音 (道灌) 草をも木をも 吹きしほり行 (兼信) ※「新編武蔵風土起稿」・・・文化・文政期、1810年から1830年にかけて編纂された武蔵国の地誌。 ※神垣・・・神社を囲い神域と他を区別する垣。
道灌はこの戦に勝ち凱旋した際、当時の通貨である15貫文を社領として寄進しました。
その後、文明9年(1477)春、平塚城(現在の東京都北区上中里)を拠点とし関東管領上杉家に反旗を翻した豊島勘解由左衛門を討伐する際や(長尾景春の乱)、同11年(1479)春、室町幕府に造反した千葉孝胤を攻める際にも道灌は当社に必勝を祈願し、見事勝利を収めました。 この様なことから、当社は当時から「勝負の神様」「戦勝の宮(みや)」と呼ばれ、人々よりあつい信仰を集めました。当時、当社境内には稲荷山という小高い山があり、道灌は稲荷山に立ち豊島氏の平塚城を望みながら戦略を考えたのではと思われます。 (神社HPより)
日本武尊、高御産霊神、神功皇后、応神天皇
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