窓誉寺の開創は、元和5年(1619)に徳川頼宣公が紀州に入封した際、駿河国(現在の静岡県)の窓泉寺二世、瓢外法察(けんがいほうさつ)大和尚を請せられ共に入国し、前藩主浅野公の城内砂之丸の館を下賜され、本堂その他の伽藍を創設し、頼宣公より高僧と仰がれ「誉」の字を拝領し、窓誉寺の開山となられた。もともとは窓養寺という寺名であったが、ある夜瓢外法察大和尚がお葬式に行くと、急に暴風雨となり、稲光、雷鳴が轟き、空には火災車が現れ、お桓(かん)を引っ張っていこうとした。大和尚は、水晶数珠を押し挟んで合掌し一喝すると、嵐は収まり、天空には明るい月が出た。その話を頼宣公が聞き、「それは名誉なことである」と「誉」の字を賜り以後窓誉寺となり、その時の数珠と袈裟は現在でも秘蔵されている。
また窓誉寺には、番丁皿屋敷で有名なお菊の皿が残っている。これは、青山主膳の伯母エイが当時の窓誉寺住職にお菊の供養を頼み、青山家家宝の皿を渡したとのことである。(お菊の皿は非公開)。境内には供養の為の「お菊地蔵」がまつられている。