ひろほこじんじゃ
山口県宇部市大字奥万倉615
もともと若一王子(ビャクイチオウジ、ニャクイチオウジ)神社と称し、鎌倉時代の正応・永仁(1288~98)の頃、同村の柏ノ木に、神霊がお降りになったと申伝え、同所に社を建立する。 南北朝時代の建武..
もともと若一王子(ビャクイチオウジ、ニャクイチオウジ)神社と称し、鎌倉時代の正応・永仁(1288~98)の頃、同村の柏ノ木に、神霊がお降りになったと申伝え、同所に社を建立する。 南北朝時代の建武年中(1334~)の3年に厚東武実の臣 物部政家による当社修理とのことが棟札に記されている。其後、室町時代の文明年中(1469~)、ある日村人が、社辺を葬場としたことがある。すると、その夜宝殿が震動して扉が自ら開いた。村人が驚いてこれを見るうちに御神体は消え失せた。これを尋ねると、同村椋並平野と言う所に御神体は無事安座されていた。 村主平氏武辰はその地に社を建て奉斎した。永正の頃(1504~)、金右衛門と言う貧窮で朴訥なる者に霊示があり、「隣村に天龍の加護する霊場あり、願わくは我その地に遷らん。汝宜しく比を図れよ」とのお告げがあった。夢さめて村中の人に告ぐるが、村人は怠慢のため之に従わなかった。そのため、神前を馬にて通る者は必ず落馬して傷つくが、その理由は判らなかった。またまた金右衛門に神託があり、これが神の祟りであることを知った。そこで、同村の定林寺(現在の天龍寺)の住職に請うて、大般若経を転読してもらい神慮をなぐさめ、村主の杉重良が宝殿を建てた。 江戸時代の元禄13年(1700)、国司家12代の国司藤原広直が当社を再建する。この柏ノ木、椋並の社跡を古王子と言う。 明治4年(1871)大己貴命外二神を合祀して、広矛神社と改称し、明治42年、境内社の厳島社、須賀社、若宮社を合併、大正6年(1917)村社に、同11年(1922)には郷社に昇格。現在に至っている。
大國主神
若一王子社(じゃくいちおうじしゃ)