桂林寺は室町時代に時の将軍足利義満に知遇のあった釈周勝が建てた寺である。当時、阿波の守護職は管領細川氏の一族で、京都とは密接な関係にあった。阿波細川氏6代の持常(もちつね)は、将軍義教が赤松満祐に殺害された嘉吉の乱(1441年)のとき、猿楽の宴に列席して現場に居合わせていた。そのため武田信賢らとともに満祐討伐の中心的役割を果たした。持常は桂林寺を再建するとともに、文安4年(1447年)に細川頼春の100年忌の法要を営み、将軍義政から贈られた法華経8巻(県文化)を奉納した。持常は宝徳2年(1450年)に急死したがその後を継いだのが、丈六寺を建てた細川成之(しげゆき)である。持常の位牌は桂林寺が安置しており、戒名は「桂林院殿四刕太守細川讃岐守持常月峰光山大居士」といい、寺号はこれに因む。持常の墓は中田の東八幡神社の裏にある細川神社とよぶ小祠がそれであるといわれる。桂林寺は初めは禅寺で細川氏が盛んな頃は10の子院・子寺を持つ大きな寺であったが、細川氏が衰えるとともにさびれた。それを岡山の長春(長俊)上人が元和年間(1615~24)に再興して真言宗に改め、現在に至っている。