いちおうじのみや
宮城県石巻市湊字大門崎山2
建武2年(1335、鎌倉)7月北条時行が鎌倉に攻め入ったので、足利直義は西方に逃れようとし、土牢に幽閉中の護良親王を淵辺伊賀守義博を遣わして殺害するよう命じた。然るに義博は親王を殺すように見せかけて..
建武2年(1335、鎌倉)7月北条時行が鎌倉に攻め入ったので、足利直義は西方に逃れようとし、土牢に幽閉中の護良親王を淵辺伊賀守義博を遣わして殺害するよう命じた。然るに義博は親王を殺すように見せかけて直義を欺いて、ひそかに親王の奥州に下向されんことを勧め、途中暴風に遭われたが遂に石巻にお着きになられた。親王はこの湊の地に仮の御所を構えて世の形成を窺っておられたのである。親王は石巻に住まわれて11年後の正平元年9月38歳にて御薨去遊された。一皇子宮はその御陵墓であるといわれる。この地区には、今なお御所入、御隠里、殿原小路、大門崎、一、二、四、五条の橋名、淵辺屋敷等ゆかりの地名が遺っており、「吉野先帝御菩提碑」も建っている。又、供奉の臣下は、日野、日下、比羅塚、福原、遠山、志摩、岡本、淵辺の8人で八臣子と称し、淵辺は伊賀守義隆である。この侍臣等の霊を祀る朝臣宮と称する神社、そして又、北面の臣の碑と呼ぶ数基の板碑が御所内に建っている。 (口碑、社伝)かつて、当宮に参拝した伊達家の藩主は吉村(享保13)次いで、斉義、慶邦(嘉永3)、皇族では明治15年に有栖川宮熾仁親王をはじめ、数人の宮様があった。
護良親王
4月20日