りんしょうじ
岐阜県不破郡垂井町宮代82
当山は、六孫王源経基公(清和源氏の始祖)が、平将門公(天慶三年(西暦九四〇年)二月十四日歿)の亡位を弔い、国家の安全を願うために七堂伽藍を建立し、天徳元年(九五七年)に開基されました。天徳山隣松寺..
当山は、六孫王源経基公(清和源氏の始祖)が、平将門公(天慶三年(西暦九四〇年)二月十四日歿)の亡位を弔い、国家の安全を願うために七堂伽藍を建立し、天徳元年(九五七年)に開基されました。天徳山隣松寺と号し、天台宗の寺院でした。 貞和元年(一三四五年)に不聞契聞和尚が、荒廃していた隣松寺に 延命地蔵菩薩を本尊仏として祀り、当山を再興して、開山となられました。不聞契聞和尚は、のちに臨済宗円覚寺住職(円覚寺三十三世)となられました。また本尊仏の地蔵菩薩は、元の高昌国王子から賜ったものと伝えられています。 関ヶ原の戦い(一六〇〇年)により、鐘楼・鼓楼・大講堂・庫裡・方丈すべてが焼け落ちたと記されており、当時のものは全く残っていません。 宝永四年(一七〇七年)に、峻山惠兆和尚が中興し、臨済宗妙心寺派の寺院として現在に至っています。その後数度の火災にあい、安永六年(一七七七年)に本堂が再建されたとの伝えもあります。山門の瓦には寶暦四年(一七五四年)、本堂の瓦には天保十二年(一八四一年)の銘が書かれていました。 平成十五年七月に本堂の上棟を挙行し、併せて梵鐘の新鋳、山門・鐘楼の改築を行い、平成十七年三月に現在の伽藍が落慶しました。 (注記) 六孫王源経基公 清和天皇の第六皇子貞純親王の長子であり、六孫王とよばれています。源姓を賜り、清和源氏の祖となりました。承平天慶の乱(将門の乱・純友の乱)を平定して、正五位の下に任ぜられました。現在、京都市南区壬生八条角の六孫王神社に祀られています。 平将門公 桓武平氏高望の孫で、平安中期の武者でした。下総北部を地盤としていましたが、近隣の争いに巻き込まれ常陸の国府を焼き払ったことで国家に対する反乱とされました。自らを新皇と称して関東の自立を図りましたが数ヶ月後に下総国で破れました。 中央派遣の国司を追放した平将門を英雄として仰ぐ気風が、関東の民衆の間で時とともに強まったと伝えられています。東京都千代田区の神田神社(神田明神)など、将門公を祀る神社がたくさんあります。 不聞契聞和尚 武州川越に生まれ、幼いうちに円覚寺十世の東明恵日老師に師待されました。二十五才の時に中国(元)に渡り、修行されました。元の高昌国の王子から地蔵菩薩像を贈られました。約二十年間の修行の後、日本に帰られました。武州の瑞應寺、駿河の清見寺、相州金山寺(浄智寺)の住職を経て、六十五才の時、円覚寺の住職(円覚寺三十三世)になられました。 六十八才(慶安二年七月十二日)で示寂されました。 平成十七年三月 天徳山 隣松寺
(寺院横の説明書きによる。)
天徳山
臨済宗
妙心寺派
天徳元年(九五七年)
地蔵菩薩(元の高昌国王子から賜ったものと伝えられる)
六孫王源経基公
宝永四年(一七〇七年)
峻山惠兆和尚